2015年


ーーー10/6−−− ブラックホークダウン


 
国内ではあまり知られていないようだが、「ブラックホークダウン」という戦争映画がある。戦争ものの映画と言えば、第二次大戦か、ベトナム戦争を題材にしたものが多いが、この映画は現代に近い市街戦を描いている。舞台はソマリアの首都モガディシュ。時は1993年10月3日。

 内戦状態となったソマリアでは、飢餓が蔓延した。国連から平和維持軍が派遣された。その中の米軍が、民兵組織の首謀者を拉致する作戦を立てた。米軍単独の秘密作戦であった。計画では30分程度で終了するはずだったが、作戦行動中に軍用ヘリ「ブラックホーク」二機がグレネード・ランチャーで撃墜され、様相は一変した。結局部隊全員が引き上げるまで15時間かかり、米兵18名と、平和維持軍の1名が戦死した。直後、米国のテレビで、衣服を剥ぎ取られた米兵の死体が、民兵の手で路上を引き回される映像が流れた。それが米国内で大きな波紋を呼び、最終的にクリントン大統領は米軍の完全撤退を決断した。いわゆる「モガディシュの戦い」である。

 凄い映画である。現代の市街戦を描いた映画としては、最高の出来であるという評価もうなずける。2時間半ほどの映画だが、ほとんど全てが戦闘シーンである。それでいて、退屈しない。完全に引き込まれてしまうのである。とにかく映像が生々しく、臨場感がある。その迫力ある映像から、戦闘の恐怖がひしひしと伝わってくる。

 また、随所で美しい映像が展開される。戦争映画で美しい映像というと、違和感を覚えるかも知れないが、実際に美しいのである。それがまた、何とも言えない臨場感をかもし出す。監督はリドリー・スコット。名作「ブレードランナー」や「エイリアン」を手掛けた巨匠である。

 ストーリーは全て実話だが、いささか解せない部分がある。何故ブラックホークが撃墜されるような事態になったのか。民兵組織がグレネード・ランチャー(米軍はこれをRPGと呼んでいた)を所有しているのは分かっていたはずである。それによってヘリが撃墜される可能性は、認識されていたに違いない。それなのに何故、標的となる作戦行動を取ったのか。ヘリの装甲がRPGに耐えうると判断していたのか。いやそれは無いだろう。ヘリがRPGをかわすために急旋回し、ロープで地上に降下しようとしていた兵士が振り落とされて、地面に叩きつけられるシーンがあった。ともあれ、二機ともテールローターが狙われ、その破損によって墜落した。敵は弱点を知っていたのである。その事も、米軍の想定外だったのか。

 戦争では、予想通りに事は運ばない。専門の司令官でも、結果的に誤った作戦を立ててしまう。それに命をかけるのが、戦争なのである。

  映画の後半で、米軍の司令官が、パキスタン部隊とマレーシア部隊に応援を求めよと指示を出した。部下が「これは米軍単独の秘密作戦ですが」と反論すると、司令官は「そんな事を言っている場合か」と一蹴する。結果として、平和維持軍のマレーシア兵士が一人戦死した。

 安保法が成立し、自衛隊が未だかつて無い危険に晒される恐れが指摘されている。自衛隊員の家族がこの映画を観たら、背筋が凍るような思いがするだろう。それほど恐ろしい映画である。




ーーー10/13−−− おばさんの親切


 
子供たちが小学生だった頃、近所のおばさんが毎朝道を掃いていた。おばさんは、通りかかる子供たちに、「おはよう」と声をかける。ほとんどの子供は返事をするが、一人だけいつも無言で通り過ぎる子がいた。おばさんは、その子の行儀を直させようとした。一回に二度三度と、しつこく声をかけるようになった。返事をするまで続けると、他の子に語ったそうである。次第にエスカレートし、追いかけて「おはよう」を連呼するようになった。そのうち、その子は姿を現さなくなった。

 今度は、私が小学生の時の話である。場所は東京都中野区。住宅街を抜ける通学路の途中に長い下り坂があった。それを降り切った、曲がり角の家のおばさんが、朝ときどき道を掃いていた。やはり、通りがかる子供たちに「おはよう」と声をかけた。私はそのおばさんの仕草や顔の表情に、過剰な善良さのようなものを感じて、好きでなかった。うさん臭いような印象すら抱いていた。返事は返したと思うが、不快な気持ちが付きまとった。声をかけないでくれ、構わないでくれと言いたかった。坂の下におばさんの姿を見ると、今日はついてないなと感じた。戻って別の道を行こうかと考えたこともあったが、それはひどく遠回りになるので、現実的ではなかった。

 ある朝、またおばさんが道を掃いていた。わたしは、暗い気持ちで坂を下り、おそらくはっきり判るくらいの仏頂面でおばさんの脇を通り過ぎた。するとこれまでに無かったことだが、おばさんが近づいてきて、「ちょっとぼうや」と声をかけた。私はギョッとした。「えっ、何なの? ボク叱られるような事してないよ」と、心の中がざわついた。おばさんは私の首筋に手を伸ばして、「襟が曲がっているから直しておくね」と言った。

 私は、恥ずかしさにうなだれ、黙したままおばさんの親切に身を任せた。その姿を、上のほうから別の目で見ているような気がしたのを覚えている。
 



ーーー10/20−−− 卒婚 


 私が勤めていた会社の同僚たちも、定年退職を迎える年齢になった。60歳であっさりとリタイアする者、65歳まで雇用延長で頑張る者、その途中の年齢で去る者というふうに、状況は個々別々だが、その辺りの年齢になっていることは間違いない。

 卒婚という言葉があるそうだ。結婚という関係は保ちつつ、夫婦が別々の生活に入ること、つまり結婚して生活を共にしてきた状態を卒業するということらしい。子育てが終わり、そろそろ人生のゴールを意識し始めた熟年夫婦が、お互い元気なうちにやりたい事をやっておこうと考える。そのやりたい事が、夫婦にとって共通なものでなく、場所も一致しない。そこで別々に暮らしながら、それぞれの道を進もうと言うわけだ。

 最近になって、昔の仲間が定年退職をし、奥さんを自宅に残したまま、郷里へ帰っていった。彼は、どうしても生まれ故郷に心が残っているらしい。一方奥さんは、長い間に築き上げた現在の生活環境を捨てる気になれない。いまさら夫の実家に入る事に、いささかの抵抗感もあるだろう。夫は妻に、気が進まないことを強要する考えも無い。仲たがいをしたわけではないので、時折夫は妻を訪ねてくる。それが結構新鮮だとも言う。

 もう一人、別のケースもある。かねてより田舎暮らしに憧れていた友人が、縁もゆかりも無い遠方の地に空き家を購入し、移り住んだ。彼はこの先、勝手気ままな一人住まいで、周囲の豊かな自然を楽しみ、趣味の写真を撮り、野菜作りや山菜取りにいそしむのだという。奥さんは、自宅に残したままである。やはり奥さんは、都会の便利な生活を捨ててまで、夫の夢に付き合う気持ちは無いのだろう。先日その友人が、新たに購入した中古の軽トラに乗って、我が家へ遊びに来た。実に生き生きとして、嬉しそうだった。その気になって探せば、格安の物件があるという。過疎化が進む地域では、移住してくる人は、たとえ熟年でも歓迎なのである。友人は、そういう地元との付き合いも楽しみだと言った。

 このような卒婚の実例を、家内が周囲の人に話したら、みんな驚いた顔をしたという。離婚話はよくあるが、卒婚など聞いたことが無いというのである。そのような二重生活を可能にする経済力が、この地ではなかなか難しいという事情もあるだろう。しかし、もっと本質的な事は、農村部では好き嫌いに拘わらず、夫婦の絆が強いということが挙げられる。農作業に限らず、家の周りの作業にしても、夫婦が協力しなければ立ち行かない。夫は金を稼いでくるだけ、妻は家事をするだけ、という関係ではないのだ。否応無しに、夫婦は同じ道を進むしかないのである。だからこの地では、なんだかんだ言っても、けっこう夫婦仲の良い家庭が多い。





ーーー10/27−−− 市民運動会



 
先日、市民運動会があった。正式名称は、安曇野市穂高地域市民運動会。つまり穂高地域の住民を対象にしたイベントである。元は穂高町民運動会と言ったが、合併して安曇野市になってからは、こういう名称になった。

 私が越してきた当時は、まだ町民運動会だったが、かなり賑やかに開催されていた。と言っても、自分が毎回参加したわけではない。町内会の役員として運動会に動員された際の記憶である。その後二十年近く経つうちに、運動会の活気は年々下り坂を辿ってきた。穂高地域には23の区があるが、今回参加したのは12区だけ。過半数を割るのは時間の問題となってきた。そのような状況なので、いよいよ市民運動会を終わりにしようという話が公になってきた。これまでも、運動会の存在意義について議論はあったが、ここへ来てついに、打ち切りを視野に入れた議論へと進んできたのである。

 我が家が住んでいる地域の区でも、数年前に運動会への参加の賛否を問うアンケート調査を行った。その結果は、不参加を支持する票が多かった。そこで区の役員は、市当局に対して不参加を打診した。ところが、市の方から、行事に協力するように圧力を掛けられ、結局従来通り参加することになった。その当時は、行政の力技がまだ健在だったのである。そのようにして何とか繋いできた行事だが、現在はもはや、そのようなコントロールが効かない状況になった。

 こういう行事は、参加してみればけっこう楽しかったりする。しかし、この地域でも、個別的な生活スタイル、多様化した価値観が一般的になった。自発的に運動会へ出掛けて楽しもうと言う住民は、ほぼ皆無である。選手の他は、役員、常会長、班長といった、義務的に参加する者ばかりである。その選手を探し、出場をお願いするのも、役員にとっては大変な仕事である。自ら出場したいという人はまずいない。いろいろなコネを使って、依頼を断れない人を探すのである。レジャーが少ない時代には、地域揃っての楽しい行事だった運動会も、今では義務とお付き合いだけの形骸化したものになった。運動会が終わりになるというのも、時代の流れで仕方がないかも知れない。

 後片付けをしているとき、年配の役員が「慰労会も無くなって、寂しいね」と言った。以前は運動会が終わった後、公民館に戻って、選手、役員の慰労会を行なったものだった。それもいつの間にか無くなった。「運動会には酒がつき物だったな」と、その人は言った。朝、機材を持って公民館を出る時からすでに、景気づけとか言って一杯ひっかける。会場の中学校グランドに着けば、競技そっちのけでガンガン酒を飲む。我が家が越してきた当時だから二十年ほど前か、動員されて運動会へ行ったら、ぐてんぐてんに酔っ払ったオヤジがいて、驚いたものだった。その後、中学校グランドは教育施設ということで、飲酒が禁止されるようになり、現在に至っている。

 時代は変わるのである。昔と同じ楽しみは、いつまでも有るわけでは無い。変わってしまうのは寂しい気もするが、しがみついても仕方無い。

 


  



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